リレーコラム

苦節十年『博物館学・美術館学・文化遺産学 基礎概念事典』の翻訳出版

2022年8月10日 09時42分 [事務局]

 今から11年前、フランスの博物館学者から一冊の事典を手渡された。20116月のバリ。当時、私は国際博物館会議・日本委員会の副委員長を務めていた関係から、パリに本部のある国際博物館会議の年次総会に出席していた。東日本大震災の報告をするためである。休憩時間になると、フランス文化省の名誉学芸員アンドレ・デバレと博物館学国際委員会フランソワ・メレス委員長(新ソルボンヌ大学教授)から分厚い本をもらい、「これを日本語に訳すべきだ」と推薦された。

 

世界の博物館界の状況は厳しく、激変の最中にある。近年の博物館ほど、経済発展・観光開発・戦争・紛争・略奪・密輸にさらされ、歴史遺産管理の観点から重要な役割を果たしている文化施設はない。そこで、私は国際的な情報を正確に伝えようと700ページある事典の翻訳を決心し、彼らと約束した。

 

学会員ならともかく、一般の人々には、「博物館学」という学問が存在すること自体、おそらくご存知ではないだろう。しかし、博物館の存在意義や資料保存の技術、あるいは文化財保護の哲学、博物館に働く学芸員の行動規範・倫理規程など専門家として知っておかなければならないことは山ほどある。

フランス語で書かれた博物館学の基礎概念事典を訳すのに、まさか10年かかってしまうとは思いもしなかったが、この度、ようやく日の目をみることができた。

 

事典の内容は広範にわたっているが、かいつまんで紹介すれば、博物館という機関・組織・施設を取り巻く基本的な概念が懇切丁寧に、くどいくらい()、記述されている。

たとえば、博物館とは何か、なぜ博物館は存在するのか、古代から現在までの博物館の発展史、博物館学という学問はどのように進展してきたか、文化遺産・世界遺産という概念はいかに生まれたか、文化財保護思想はどのように変遷しているか、職業人としての博物館学芸員の倫理はいかにあるべきか、博物館に研究機能は必要なのか、博物館の経営と評価をどのようにおこなうか、展示することの意味は何か、各国の博物館制度の違い、博物館建築というモニュメントの功罪など、まさに博物館学の集大成的内容である。

 

地球規模で博物館界を眺めれば、帝国主義、植民地主義の時代に集められた動産資料だけでなく、過去には不動産資料(たとえば、遺跡・墓地・墓石・石像・石塔の類)を掘り起こし、あるいは根こそぎ剥がして、原産国の住民に有無を言わせず宗主国に運んだ時代もあったのである。国際的な課題となっている文化財返還要求問題は、どのような道筋で解決策を探っていくのか、未だ解決の道は見出されていない。博物館界が直面している問題は根が深く、課題も多いのが実態である。

 

こうした時に、拠り所となるのは、歴史から学ぶことである。正確な知識にもとづいて世界に対する総体的な理解を深めること、博物館の存在意義を世界史的な視点から捉え直すこと、すなわち、文化継承のあり方を哲学的に思索することである。そのためには、文化大国フランスの博物館哲学と「博物館の基礎概念」を丁寧に読み込むことから始めなければならない。本事典は、博物館・美術館関係者だけでなく、文化や文化財関係者にとっても貴重な情報源であるので、ぜひ一読していただきたい。

 

長崎歴史文化博物館 館長 水嶋英治
(JMMA会長)